金山疎水の開削飯塚伊右衛門
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ここ安房に限らず全国各地において、郷土の政治、文化、産業等の発展に携わった人、貢献した人、国難に準じてその名を後世に残した人など、読者の皆さんは多くの人物に、史話に関してご承知のことと思います。
今回、飯塚伊右衛門を取り上げてみようと思います。ひょっとしたら「それって、どんな人物?」なんて方も。特に若い方には、多いかもしれません。
一口で言うと、打墨(うっつみ、現在の鴨川市)の金山疎水開削に尽力した人です。
明治17年の打墨村誌によれば、同村の地勢を「東北に山岳並列し、西南に川が遮り、横幅員狭くして縦一里余りに達し、村体は殆(ほと)んど細長形を為す。故に東北部は概ね土壌帰伏し・・・」と。また、安永3年(1774)の新田畑名寄帳には、「既存そして新たに開かれた田は、棚田が多く、水利に恵まれず、日照りが続けば常に大きな被害を受け・・・」と記されています。
嘉永年間(1848~53)に上打墨村の名主を務めていた伊右衛門は、このことを深く憂慮し、金山川の渓水をなんとか打墨の耕地に通して、旱害(かんがい)という土地の患(うれ)いを除きたいと考えていました。そこでまず彼は、地形を調べ土地の高低を明らかにし、工事の量や費用の見積もり等を計算し、村内の主だった人達と度々(たびたび)検討を加え、名主役退任後もこの事業に全力を傾け、さらに細部にわたる計画書を作成し、村民に金山疎水開削のことを図ったのです。
言うまでもなく、会議は混乱。反対異義を唱える住民への説得も容易でなく、そこで伊右衛門は、意を決し「もし工事が不成功におわったときは、全責任をひとりで負う」と提案、彼の己を捨てたこの決断は、村民の胸を打ち、難航した会議も衆議一決し、元治元年(1864)9月着工に至りました。
工事の概要は、鑿(のみ)で掘ったトンネルが約667メートル、切り開いた水路が約4180メートル、取水口は、現在の金山ダムの堰堤(えんてい)より約100メートル下流の金山川左岸に設置、曲折したトンネルの途中には、余分な水を放出するための余水吐(よすいは)きも設け、慶応3年(1867)3月竣功。
この水路の完成により、新たに十数町歩の耕地が開かれたといいます。
打墨神社にある石碑には、事業の経営と内容、建碑の由来、そして事業関係者名が記されております(関係者の苗字には、飯塚、速水、岡、刈込、川名、そして鈴木とありますが、私の知る昭和、平成の今日も、彼らのご子孫と思われる方々の鴨川市外等におけるご活躍は、衆目を集めるところであります)。
近年、耕作放棄地、離農、過疎やTPP等々、難題山積みに直面している日本、当地安房、鴨川ですが、就農者、JAや行政関係者、そして我々一般市民が一体となって、先賢偉人・伊右衛門らの知恵、その功績を見習いたいものです。
(石崎捷彦)
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