6 鈴木真砂女

情熱の俳人 鈴木真砂女

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宝暦元年(1751)横渚村前原に、吉田屋旅館が開業した。それより前の享保17年(1732)に、前原には家数415戸、人数1862人という記録がある。そのころの前原は、イワシ漁で経済的にも潤っていた。特に肥料にする干鰯(ほしか)づくりが盛んだったようである。
吉田屋旅館は、現在では鴨川グランドホテルと名称を変え、所在地も前原から東条海岸に移って営業している。その鴨川グランドホテルの玄関前に、次の句碑が立っている。
<初凪やもののこほらぬ国に住み>
鈴木真砂女の第一句集「生簀籠(いけすかご)」昭和30年上梓)の冒頭を飾る句である。作者の自句自解によると「この句、房総の駘蕩(たいとう)とした新春を詠んだもので、現在の生家の庭に句碑となっている」とある。ちなみに鴨川グランドホテルの地下1階には、鈴木真砂女記念館がある。
<あるきは船より高き卯波かな>
作者自句自解「小舟が一つ波にあやつられうねりの陰に見えなくなったかと思うと再び姿を見せる。人生も波の山から奈落へ。そして浮かびあがる」(昭和26年、「生簀籠」)。
この句は句碑として、平成7年に仁衛門島に、鴨川グランドホテルに向きあうように建立された。「生簀籠」と言う句集の題名は、真砂女が老舗旅館の女将として過ごして来た年月を、彷彿(ほうふつ)とされるものがある。そして、家を出ることになったことを、案示してもいるように思われる。
<羅(うすもの)や人悲します恋をして>
作者自句自解。「人妻が恋をして、幸せであるべき筈(はず)はない。このため何人かを苦しませ悲しませた。そして自分自身も相手も」(昭和29年、生簀籠」)。
真砂女は、明治39年(1906)にうまれた。丙午(ひのえうま)の年である。丙午年うまれの女は、夫を殺すと言う俗信が、蔓延しているところであった。昭和4年、23歳の時に本山孝三郎と結婚。26歳の時に、娘可久子(文学座女優)出産。29歳、夫孝三郎が博打にのめり込んで失踪。離婚して実家、吉田屋に戻る。この年に、姉が死亡。30歳で親の懇願により、義兄と結婚、吉田屋の女将になる。気にそわない結婚だったというが、このころから俳句に魅かれ、大場白水郎や久保田万太郎に師事する。
そして生涯をかけた、最愛の人との出会いがあった。そのことが51歳で上京し、銀座に「卯波」を開くことになるのである。出会った時は、海軍将校で7歳年下だったと言われる。
<かくれ喪にあやめは花を落しけり>
作者自句自解「40年という永い月日を付き合ってきた人だ。4月23日、より年若だったが先に逝ってしまった」(昭和52年、「居待月」)。
最愛の人の葬儀でも、焼香もできない。それが「かくれ喪」なのだろう。しかし、真砂女を主人公とした、瀬戸内寂聴の作品「いよよ華やぐ」では、焼香させてもらっている。
俳人真砂女の句に触れると、数奇な運命に翻弄(ほんろう)されながらも、一本筋の通った生き方をしていることに気づく。房州女の強さだろうか。あばら骨が一本足りない房州男には、とても真似ができない潔さに感じ入ってしまう。
<戒名は真砂女でよろし紫木蓮>=平成7年、「紫木蓮」=
(加藤和夫)

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