寺社空間を演出する彫工
武志伊八は、江戸中期、安房国長狭郡下打墨村(あわのくに、しもうっつみむら)に生まれる。今の鴨川市西条、大日交差点の付近である。信由を初代とする武志伊八は5代続いたが、ここで紹介する「伊八」は、初代を指している。
伊八は、安房国で最初の彫物大工であった。宮彫師、彫物師、彫工などと呼ばれ、神社仏閣に木彫装飾をほどこす仕事である。
伊八が73年の生涯にわたり、切れ目なく仕事を得ることが出来た時代、安永から文化文政の時期は、江戸の庶民文化が花開いた時代であった。伊八の生涯とほぼ同時代に、絵師では、鈴木春信、伊藤若冲、池大雅、曾我蕭白(しょうはく)、東洲斎写楽、与謝蕪村、喜多川歌麿、円山応挙、長澤蘆雪(ろせつ)、葛飾北斎、歌川広重、渡辺崋山などが活躍している。伊八20歳のころは、杉田玄白らが「解体新書」を刊行する。海路などから入ってくる江戸文化に、伊八は敏感であったろうし、彫物の造形の中に取り入れたかもしれない。ただ、伊八自身は江戸で特定の流派に就いて彫物の修行をしていなかったという事実。その時代、美術とか今でいう芸術という概念はなかった。伊八は自分の仕事にどんな認識を持っていたのだろうか?
自分は大工である。寺社建築を造る大工の中で、飾り彫刻を担当する大工。家族や弟子たちを養うための生業として励んだのだった。他の大工衆の段取りにも気をつかい、施主の注文したテーマを彫り上げていく。作品裏面の墨書銘は、彫物大工あるいは彫工、武志伊八郎信由とある。
伊八30代前半、鴨川市鏡忍寺の欄間三面に七福神を彫った。一般に七福神の図といえば帆掛け船に乗り合う神々が思い浮かぶが、なんと、鏡忍寺の七福神は、飲めや歌えやの神会(?)を開いているのだ。欄間左手の大黒天を見ると、俵の上に顔をのせ、酔いつぶれて寝入っている。毘沙門天は起きろ!とばかりに耳たぶを引っぱり上げる。それでも大黒天、打出の小槌だけは、しっかり手で押さえているのが、いじらしい。
恵比寿は、弁財天の琵琶の音に浮かれ、釣りざおを肩にひと踊り。斗酒ななお辞さずという寿老人は、布袋和尚にもう一献とすすめるが、和尚手つきでノーサンキュー。
小松原鏡忍寺は、日蓮聖人が刃杖の災難に遭われたところ。その寺だからこそ、施主は明るいユーモアのある作品を望み、伊八が応えたのだった。つまり伊八は彫刻芸術のように自分の好きなモチーフを彫ったのではなく、常に施主側の注文製作であった。
伊八は大工という認識から、建物の空間を生かし演出し、龍、犀、兎、天狗、鳳凰、説話などあらゆるものを、槌音高く仕上げていく。そして安房というローカルの地にあって、世界芸術に匹敵すると言っても過言ではない作品を残した。
冥界の伊八に、近年は「波の伊八」の俗称で呼ばれると伝えれば、「わしは波彫り伊八ではないわい・・・」と(笑)。
上野治範
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