アララギ派歌人 古泉千樫
明治から大正にかけて、アララギ派の歌人として活躍した古泉千樫に、生活苦を歌った歌がある。生家は、吉尾村細野に、約1町歩(1ヘクタール)近くの土地を持つ自作農で、乳牛も飼っていたと言う。当時の農村ではかなり恵まれていた方だろう。
後に夫人となる、「山下きよ」とのことから、竹平小学校准訓導の教職を辞して上京するのは、千樫が23歳(明治41年5月)の事である。上京した千樫は、「心の花」の選者だった。石榑千亦(いしくれちまた)の紹介で、帝国水難救済会に就職する。そして、その年に創刊された「アララギ」の編者、伊藤左千夫の編集を助けることになる。
<幾年を遠く住みつつ住みわびて今はた父に銭をもらひたる>
<夜寒く帰りて来ればわが妻ら明日焚かむ米の石ひろひ居り>
故郷から訪ねて来た父から「銭をもらひ」、小さな石ころが混じった、粗末な米を食べていたとなれば、貧乏生活も頷(うなず)ける。しかし、千樫の弟子だった、安田稔郎氏は次のように述べている。
「貧乏の代名詞のように言われた千樫も、月給85円と聞けば、その時代の庶民とすれば貧しい方ではない。(略)しかし買いたい本は委細構わず買いこんで、家計を顧みないための赤字に、妻はどんなに苦しんだことか」
教導(教諭)の初任給が、15円ぐらいと言われているので、85円はかなりの高級と言える。因みに准訓導だった千樫の給料は、7円だったと言われ、千樫はよくぼやいていたそうである。
<みんなみの嶺岡山の焼くる火のこよひも赤く見えにけるかも>
千樫が嶺岡山の野焼きに、胸の内を重ね合わせて、一途に思い続けたのが、きよ夫人である。自由奔放とも言える千樫をきよ夫人は、千樫と一体となって支えていたのであろう。経済的にも精神的にも、その支えがあったからこそ、千樫は歌人として歌を詠み、自由闊達(かったつ)に行動できたものと思われる。
そのきよ夫人とのことから、追われるようにして、村を出て来た千樫ではあるが、アララギ派歌人として短歌史に残した功績は、絶大なものがある。19歳で伊藤左千夫に「一見平淡少しも巧みを求めず、而して精神自ら新しき所あり」と評された歌が次の歌である。
<探冊の苗代小田に網もちて立てる少女は虫捕るらしも>
<山畑に藍うゑ居ればいなさ吹き雨雲いでぬふりいでんとや>
このような千樫には、諸説あるようだが、鴨川市民としては、まず千樫の歌を鑑賞し、顕彰して行くべきではないかと思われる。待崎川河口には、牛が好きだった千樫の句碑が、一つ佇(たたず)んでいる。
<茱萸(ぐみ)の葉の白く光れる渚みち牛ひとつゐて海に向き立つ>
(加藤和夫)
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