「万葉集」と防人の歌 丈部与呂麿
<たちこもの たちのさわきに あひみてし いもがこころは わすれせぬかも>
歌意=防人として、今まさに出発しようとしている自分に、心からの愛情を示してくれた妻を、忘れることができないことだ。
右一首長狭郡上丁丈部与呂麿(「万葉集」巻二十 四三五四 防人の歌)
この歌は、真福寺(鴨川市大幡)境内にある、防人の歌の歌碑である。家族と別れて、はるか遠くの九州の沿岸警備に赴く、防人の悲哀が、淡々と歌われている。
歌の作者である、丈部与呂麿、「上丁(かみつよぼろ)」とは一般兵士の上位者と言う意味である。
防人の歌については、「万葉集」に「天平寶七歳乙未二月、相変わりて筑紫に遣わさる諸国の防人等の歌」とあるので、天平勝寶7年(755)ごろに詠まれたものと思われる。上総の国長狭郡(天平寶字2年=758=以降は安房の国長狭郡)から大阪までは陸路、大阪からは海路を、役人に連れていかれたと言う。武器や食料は自分で用意しなければならなかったので、大変に重い負担だった。任期は3年でも、延長されることもあり、たとえ任期が終わっても、帰路は病気や賊に襲われ、無事に帰ってこられる保証は無かったのである。
妻や家族への思いを歌った防人の歌は、「万葉集」4500首の中に、100首ほどある。長狭郡の近くから派遣された兵士の歌も、3首所収されているので、次に掲げてみたい。
<旅衣八重着重ねて寝(ゐ)ぬれどもなほ膚寒し妹(いも)にしあらねば>
四三五一 望陀(まくた)郡上丁玉昨部國忍(くしおし)のなり
<道の邊の荊(うまら)の末に這ほ豆のからまる君を別れか行かむ>
四三五二 天羽郡上丁丈部鳥(とり)
<家風は日に日に吹けど吾妹子が家言(いへごと)持ちて来る人もなし>
四三五三 朝夷(あさひな)郡上丁丸子連大歳(むらじおおとし)
「万葉集」は、奈良時代末期に、大伴家持によって編集された、最古の和歌集である。天皇から一般庶民までが詠んだ。4500首の歌の中に、長狭郡出身の与呂麿の歌がある。防人と言う過酷な運命に晒(さら)されながらも、与呂麿は、妻への愛情を「わすれかねつも」と率直に表現している。「ますらおぶり」とか「まこと」とか言われる「万葉集」の歌風が感じられる歌である。
与呂磨の歌碑がある真福寺は、自然豊かな長狭野に建っている。何かと、喧噪(けんそう)の中に身を置くことが多い昨今、いっとき静寂な古刹の歌碑の前で、与呂磨の歌に思いをはせるのも一興ではないだろうか。
(加藤和夫)
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