9 日向上人

鴨川と身延山2世・日向上人

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鴨川市貝渚に、日蓮宗身延山久遠寺2世、日向(にこう)上人縁(ゆかり)の磯村山釈迦寺がある。開基は、慈覚大師円仁(えんにん)と伝えられ、その後、日向上人が日蓮宗寺院として中興開山したということである。
寺の縁起によると、たまたま日向上人が小湊の誕生寺に滞在していると、霊夢を見たという。霊夢は「当国磯村に続く小島(現荒島)近くの海中に、釈迦如来像がましますので、速やかに迎え祀り奉れ」というお告げであった。
お告げに従い日向上人は、直ちに磯村沖の小島に渡り、座を清め香る花を献じて17日間読経すると、釈迦如来像を得たという。村人にお堂の場所を尋ねると、村人は「昔、慈覚大師の草創と伝える寺がありました。しかし、今は大日堂と申すお堂が残るのみです」と答えた。日向上人は、お堂を釈迦堂と名を変え、釈迦の尊像を安置した。
釈迦像を安置してからは、今まで打ち続いていた荒波も穏やかになり、海中の不気味な光も消えて、日夜大漁が続いた。人々はお釈迦様の慈非に感銘し、いつしか釈迦寺と呼ぶようになったという。釈迦寺は日向上人が開基した、茂原市にある藻原寺(開基時は妙光寺)の旧末寺になっている。
藻原寺のある茂原(藻原)市と、和泉村(現鴨川市)男金で生まれ育った日向上人とのつながりは、祖父・小林民部藤原實信が、北条氏によって上総藻原に移された(島流し?)ことによる。ちなみに日蓮聖人の父親・貫名次郎重忠とは、姻戚関係にあったと言われている。2人は伊勢平氏の反乱に加担して、北条氏の反感をかい、貫名次郎重忠は小湊に移された。小湊三日月ホテルの近くに立っている「貫名次郎漂着の地」と言う石柱には、「建仁3年(1203)5月12日、北条時政により当地に流着の処渡辺喜内先祖代官滝口兵庫朝家がお助けし、給仕する」とある。
日向上人については「千葉県安房郡誌」にある記述をもとに、述べてみたい。それによると、日向上人の父親・實長(小林民部實信の子)は、上総藻原から安房国男金(おがな)村に移住し、男金藤三郎實長と名乗った。
その地男金村で、建長5年(1253)2月16日に生まれたのが、後の日向上人である(日蓮聖人の誕生日は、貞応元年=1222=2月16日)。俗名は祖父の民部、出家後は民部阿闍梨、佐渡公日向と号した。民部10歳の時に大病をし、清澄山の虚空蔵菩薩に祈ると、たちどころに平癒したという。その後、民部は上総の比叡山高乗院に入るが、12歳の時に、日蓮聖人に会って改宗し、日蓮聖人に日向と命名された、といわれている。
その後日向上人は、小松原法難で日蓮聖人が不在の時は、妙蓮尼(日蓮聖人の母・梅菊)に仕えて学業に励み、佐渡法難では、日蓮聖人を追って佐渡に渡り、近侍した。そして、健治2年(1276)には、日蓮聖人の師・道善房の墓前(清澄寺)で、日蓮聖人に代わって「報恩抄」を朗読したと伝えられる。
日蓮六老僧でもあり、日蓮聖人の後を継いで、身延山久遠寺の2世を務めた後は、上総国法華谷に閑居し、正和3年に遷化する。62歳。男金山の麓に、示寂日向聖人と父母(妙信・妙向)の墓石が立っている。
(加藤和夫)

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