自刃した憂国の烈女 畠山勇子
画像 wikipediaより
日本中を震撼(かん)させた大津事件が起きたのは、明治24年5月11日である。
東洋遊覧中に来朝したロシア皇太子・ニコライ2世お召しの行列は、100台ほどの人力車を連ねて、滋賀県大津の沿道にさしかかっていた。路上警固に当たっていた巡査、津田三蔵は、かねてより、皇太子遊覧は名目で、目的は日本探査にあると考えていた。三蔵は突発的にサーベルを抜き、目の前を通る皇太子の頭部を切りつけた。悲鳴とともに反対側に転がり出た皇太子を、三蔵はなおも追った。
最初に事にきづいた後続同伴のギリシャ国王第2皇子ジョージ親王は、三蔵の背中に竹鞭の乱打をあびせ、車夫が後ろから足腰をかかえて倒し捕縛した。皇太子の刀傷は、頭部と頸椎の2か所で、骨、骨膜に達していたが一命はとどめた。
当時のロシアは、世界屈指の軍事力を誇り、極東への領土的野心を持っていた。明治維新後20年の日本は弱小国にすぎない。
事件の一報を聞いた天皇は、思わず椅子から立ち上がった、という。
「天子様ご心配。国中のあらゆる所から、あらゆる人より露国皇太子に向けて見舞いの手紙、電報、珍奇な贈り物が寄せられる。富める者も貧しい者も、その最も大切にしている先祖伝来の遺物が捧げられた」。小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)「勇子随想記」の意訳である。
畠山勇子は、慶応元年に、長狭郡前原町横渚743番地(現在の鴨川フランシス教会のある所)に生まれる。近くの前原小学校に学び、全科目主席で卒業したという。
21歳で朝夷郡安馬谷の旧家に嫁ぐが、23歳で離婚。その後日本橋の魚問屋に、お針子として働きに出る。彼女は政治や歴史に関心を持ち、朝野新聞に目を通す、変わり者のお針子であった。
5月11日、大津事件は起きた。勇子の行動は早い。19日には質屋で旅費をつくり、ロシア帝国、日本政府、血縁者などにあてた遺書と、下谷の床屋で研がせた剃刀(かみそり)を懐に、京都行きの汽車に乗っていた。
帰国を急ぐロシア皇太子を、何とかお引留めするには、死をもってお頼みするしかない、と勇子は決心していたのだ。
20日の朝、京都に着いた勇子は、駅の新聞で19日にロシア皇太子が帰国の途についたことをしるのだが・・・・。
自刃は人目の絶えた夕刻と決め、彼女にとっては最初で最後の京都見物に時を過ごす。
畠山勇子は、京都府庁前に白布を敷き、遺書を前に置き静座した。事後の着物の乱れを防ぐために細紐(ひも)にて両膝を固くゆわえた。剃刀を手に腹をさばき、のどを深く切る。数人が駆けつけ、誰かが「発狂か!」と叫ぶ。勇子、激しく首を左右に振り、しきりと血で染まった腕を天に指し、やがて息絶えた。享年27。
<日々日々に清めて鏡にうつし見よ貞操邪正その容貌(みえ)にあり>
大審院長・小島惟謙(これかた)は、津田三蔵を死刑にしようとする政府の圧力に屈せず、司法権を守り抜き、無期懲役に処するが、その判決の日、津田三蔵は37歳で病死。
(上野治範)
コメント