名僧と大正学院
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私が吉尾小学校へ入学(昭和22年)して、最初の2年間で学んだ教室は長狭街道沿いにあり、長安寺校舎と呼ばれていた。3教室しかない1棟であったが、由緒ある建物であったことは、ずっと後で聞かされた。それには里見氏と関係が深い、正木氏の菩提寺の名刹・長安寺にあった教育機関「大正学院」の建物を移築した校舎であったそうだ。
大正学院は大正7年に、宮山(鴨川市)の長安寺第41世住職・原田祖岳老師により、中等教育機関として長安寺境内に創設された。今から100年も昔のことなので、詳細は詳(つまび)らかでない点が多いが、川名賢義氏による高齢者学級資料や、鴨川市史、地元の人の話等を基にその概要をさぐってみた。
明治の終わりから大正時代のはじめになると、小学校教育が普及したこともあり、その上の中等教育を求める声が聞かれるようになった。長狭地区では、明治34年に、北条町(館山市)に、安房中学校が新設されたこともあって、県立中学校を望む声が強くなっていった。
そんな折、向学心に燃えた長安寺近辺の青年たちが、曹洞宗屈指の名僧と言われた原田老師が住職に就かれたことを好機に、寺の庫裏などを教室として勉学に通いはじめた。それが大正学院の創設につながったと思われる。
原田老師の自伝に、次の記述がある。「大正学院を創設した動機としては、この辺りは青年の教育機関らしいものが一つもない。青年たちは雑草のようにほうりっぱなしで、かわいそうでならない。なんとか教育してやろうと思いたった」とある。当時原田老師は、駒沢大学の教授であったこともあり、自分の教え子をまず3人連れて来て、教官にあたらせた。原田老師の教育方針としては、将来を担う人材の育成にあった。
健全な人間を育てるために、毎朝必ず30分の座禅指導の後、授業を受けたとのことである。生きた学問習得を目標に、教科目は国語、漢文、終身、歴史、数学などの外に、英語もあったそうだ。
大正学院をはじめた頃の生徒は、近くの青年たちだけであったが次第に評判も高くなり、また原田老師の徳望を慕って、長狭地区の外からも来るようになった。曽呂、東条、天津小湊方面、さらには君津郡や平郡、勝山方面からも、多数の生徒が集まって来た。通学手段は、大体が徒歩や自転車であった。寄宿舎生活の者も居たとのことである。
大正11年、鴨川町に組合立長狭中学校が設立されたこともあって、大正学院は創立満6年で閉校となった。その間、250人ほどの青年たちが学んだと言われる。生徒数が増えるに従い、信者の寄付で建てた校舎の名残が、私の学んだ長安寺校舎であった。
大正学院は6年間で幕を閉じたが、地元の村長、助役、農協長などを務めた名士の方々、あるいは中央へ出て多くの分野で活躍した者も多く、まさに多士済々な人物がここから育っていったのである。
(尾形喜啓)
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