13 日蓮

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

海の聖人、法華経の業者


画像 wikipediaより

「うららかな春の日が、入江に臨んだ漁村を暖めている。花も八重が咲こうという時候の風のないいかにも長閑(のどか)な日だった。入江の水は、ゆるくうねって、磯まで来てこまかく白く砕けては、この、もの倦いまでに静かな漁村の春の日の夢を揺っている」
ーー大仏次郎の「小説日蓮」の書き出しである。
比較的に高僧、哲人は山から出ているが、日蓮は自ら、貧しい漁夫の子であったと誇らかに記している。
聖人は今からおよそ800年前、承久の乱の翌年、貞応元年(1222)、鴨川市東部から天津小湊あたりの漁村に生まれたとされ、現在その地は元禄の大津波により海中に没している。
日蓮、幼名は善日磨。両親も教育熱心のようで、少なくとも「貧しい」漁夫の子であったかどうか・・・・。善日磨は宗教や学問的天分に突出し、12歳にして程近い清澄寺(当時は天台宗)に入る。この折、虚空菩薩の御前で「我を日本一の智者となし給え」と願をかけたという。17歳、清澄寺を出て、鎌倉に向かう。当時鎌倉では、禅宗や法然の専修念仏が盛んであることを知る。鎌倉には4年、さらに仏教の総合大学ともいうべき比叡山に遊学。32歳、清澄寺に帰った。日蓮は、清澄山旭ケ森に立ち、まさに昇らんとする太平洋上の朝日に向かって大音声、「南無妙法蓮華経!」と唱える。(立教開示)。
その後、布教への情熱から、時には他宗を激しく攻撃、多くの敵と、熱烈な信者をつくっていった。
「小松原の法難」は、現在の鴨川市東条の海沿いの地で起きた「刃杖(とうじょう)事件」である。
文永元年(1264)、日蓮は10年ぶりに、父の墓参と母の病気見舞いに帰郷した。こえて11月11日には、10人ほどの弟子とともに天津の信徒・工藤吉隆の館に向かっていた。待ち伏せていた土地の地頭、念仏信者の東条景信の手勢、数百人が日蓮一行を急襲する。剛力の弟子・鏡忍坊は、わきの松の木を引き抜き応戦するも、多勢に無勢、討ち死に。聖人も馬上より打ち付ける東条氏の刃を、念珠で払うも切っ先が額をかすめ傷を負う。現在、小松原には「鏡忍寺」があり、近隣に「聖人疵(きず)洗いの井戸」や「血染めの衣」が残されている。
さて、東条景信は後に、この時の科(とが)により、十羅刹女(じゅうらさつにょ)にとり殺されたことになっている。
しかし、これには異説もある。鴨川市西町の曹洞宗恵日山永明寺には、東条景信の大位牌がある。「宝昌寺殿道悟景信大禅門」。これが東条景信の戒名とされているものである。日蓮が54歳の時に、領家の新尼に送った手紙には「(景信は)すでに半分ほろびて今半分あり」とある。日蓮を襲った時に、落馬した傷が、かなり重症だったのではないだろうか。それが仏罰と言えるかもしれない。
ただ、その後東条氏は、文安2年(1445)に、里見義実に亡ぼされるまで、東条郷を治めている。
(上野治範)

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