15 近藤啓太郎

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

鴨川の海と魚を愛した近藤啓太郎

画像 wikipediaより

昭和29年頃から、昭和31年頃にかけて活躍した作家たちを、第三の新人と呼ぶ。その中に、昭和31年「海人舟」で、第35回芥川賞を受賞した作家、近藤啓太郎がいる。
私はふとしたことから、鴨川市制施行前に鴨川町議を務めた、関一三(いちぞう)さんに連れられて、近藤先生のお宅を訪問するようになった。近藤先生のお宅は、花房の滑谷堰を前にした平屋造りであった。
近藤先生と関さんは犬好きの仲間であり、関さんが地元猟友会であったことから、狩猟にも同行するということだった。娘さんが、近藤家のお手伝いをしていて、お二人は屈託のない会話を交わしていた。関さんは雑誌「微笑」に、がんに効くと言われたサルノコシカケを、山から取って来たとして登場している。
相撲取りのような大柄な近藤先生は、いつも褞袍(どてら)を着ていたのが印象的だった。
近藤先生は、三重県で生まれ、東京美術学校日本画科(現東京芸術大学)を卒業し、その後養母とともに、鴨川市に移り住んだ。裕福な家に生まれたが、実母がその家の女中だったことから、精神的に複雑だったことは、エッセイ等にも書いている。子どものいなかった父の正妻である養母は、近藤先生を実子としてこよなく愛してくれ、近藤先生自身も母親として、受け入れていた。
その近藤先生は「養母と鴨川に移住した頃は放蕩(ほうとう)を尽くした後のどん底の生活だった。育ちの良い母が、よく耐えられたものだ」と述懐している。とにかく、鴨川に落ち着いた近藤先生は少しの間、漁師の手伝いのようなことをする。後には鴨川中学校で図工の教師となる。漁師町である、鴨川の大浦や川口に住み、それを基に書かれたのが「海人舟」である。
「海面は鏡の反射を受けているかのような明るさで、波がきらめきゆらめいていたが、その海面の下、約三尋(ひろ)のところを、セイゴの群れが広い腹を見せて、帯状になって泳いでいた。セイゴの群れの上へ、章魚(たこ)が突き抜けた。瞬間、ぱっと美しいピンク色のパラソルがひらいた」
章魚がセイゴの群れを襲う場面である。色彩豊かな表現は、海藻や岩場の描写で、随所に出てくる。一幅の絵のような表現である。これについて尋ねたところ、近藤先生は実際の体験ではなく、漁師から聞いたものだと言い、俺は海に潜ったことはない、と笑っていた。
絵については、鴨川中学時代に、漁師に入れ墨の絵を頼まれて閉口したこともあったそうである。当時、ほとんどの漁師は入れ墨をしていた。漁師の生活は「板子一枚下は地獄」と言われ、入れ墨は海で死んだ時に見分ける手段でもあった。大事な絵なので漁師は、絵の先生である近藤先生に、描いてもらいたかったのだろう。
魚について、「鯖(サバ)はうまい、千倉の鯖はあたらない」と近藤先生は思っていた。ある時、自分で鯖の刺身を作って食べたら、とても美味(おい)しかったので、漁師に話したら「鯖の生き腐れ」と聞いて恐ろしくなったそうである。他にも、鰯(イワシ)は、丸干しより、目刺しの方が美味しい、とも述べている。高級魚も鰯も、近藤先生は、とにかく魚が大好きなのであった。
このように、鴨川の海と魚を愛した近藤先生は、鴨川を見下ろす心巌寺の奥まった墓地で養母、寿美夫人とともに眠っている。
(加藤和夫)

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