数学者で郷土史家 堀江顕斎
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「治承4年(1180)、佐殿(すけどの=源頼朝)をはじめ、土肥実平らの人々は、扁舟(小舟)を浮かべて、安房国平北郡猟島(現・鋸南町竜島)に着岸す」
石橋山(現・神奈川県小田原市)の戦いに敗れ、海路安房国へ逃れた頼朝一行の事歴を記した「佐殿草創記」巻七の冒頭である。
著述者は、堀江顕斎(けんさい)。名は是顕、顕斎は号である。文化2年(1805)、長狭郡和泉村、磯部家の次男として生まれた。7歳のころから隣村西村の曹洞(そうとう)宗龍泉寺の住職、祖峰禅翁について学問の手ほどきを受けた。
13歳のとき、和泉村の堀江家の養子となる。堀江家は、代々太左衛門(たぜん)どんの屋号で、村の名主を務めた。また、400年ほど前の堀江家の先祖は、龍泉寺の開基家でもあった。
後に顕斎は江戸の狂歌師、燕栗園千寿(ささぐりえんちほぎ)らと交わりをもち、また国文学や郷土史の研究にも強い興味をもった。壮年期には江戸に遊学し、長谷川磻渓(ばんけい)の門に入り数学を学ぶ。
広い学識により、多くの著書を残している。その一つ「佐殿草創記」は、源頼朝の挙兵から、鎌倉幕府の開設までを、地元に残る伝承や伝統などを調べ、平易な仮名交り文の読み物として記述されている。
頼朝の着舟地、猟島で合流した武将は、三浦義澄、北条時宗、義時らであった。9月3日、佐殿は上総介広常(かずさのすけひろつね)の館(やかた)に向かって猟島を出立した。案内役には、当国にくわしい三浦義澄である。行程は池月(現・鋸南町江月)、大崩(おおくずれ)の山路を経て、蓑岡(みのおか=現・嶺岡)の頂にいたる。一行が長狭郡貝渚(ながさごおりかいすか=現・鴨川市貝渚)に着くころは、日は西山に没していた。
長狭郡の住人、平家の臣、長狭常伴(ながさつねとも)は、頼朝がこの地の旅館に止宿したのを知り、天与の機会と大いに喜んだ。佐殿の旅館に夜襲をかけ、首を上げれば、平清盛から莫大(ばくだい)な賞金が貰(もら)えるからである。
顕斎は「佐殿草創記」で、常伴を「その生まれ虎狼に等しく勇猛」と書いている。
すでに長狭郡に情報網を持っていた三浦義澄は、旅館夜襲を事前に知り、逆に伏兵をもって房総の荒武者、長狭軍に待ち伏せをくらわす。
「常伴元来無双の早業なりければ、佐殿に近づき奉り、じかに勝負を決せんとはやりけれども一騎当千の勇者どもにさえぎられて、近づくことあたわず、深手あまた負いければついに三浦勢の中に打ち死にす」
「長狭郡金山(かなやま)に古城跡あり、相伝えて長狭常伴の居住跡という、また、貝渚に一戦場(いっせんば)と称する地今あり、源君御旅館の跡なる事あきらけし」と顕斎は記している。
江戸から帰郷した顕斎は、農業を営むかたわら、子弟の教育に力をそそいだ。
現在、堀江家の屋敷内には、弟子たちが建てた墓碑があり「顕斎数学元量居士墓」と刻まれている。「元量」とは大本の意味か。
彼の著作の中に「算学雑記」があり、当時、出版の予定があったようだが、未刊のまま、原稿も散逸してしまった。
堀江顕斎は、嘉永(かえい)3年(1850)に、46歳で世を去った。
=参考文献『安房先賢偉人略伝』=
(上野治範)
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