農業の改善進歩に生涯を捧げた田中儀平
鴨川市の長狭街道(県道鴨川保田線)を進むと、南面は徳川幕府直轄牧であった嶺岡牧の山並みが続くが、明治天皇大嘗祭主基斎田で知られる、主基の里に入ると、嶺岡浅間が見えてくる。中腹には、房総の名瀑、落下50メートルの白絹の滝の流れがあり、その清水を湛(たた)えた白滝の堰がある。
その先の、石造鳥居をくぐり、参道を進んだ所に立派な碑が建立されている。扁額(へんがく)には、田中儀平翁之碑とあるが、なぜ、この白滝山の霊場にあって、どんな人物なのだろうかと思い調べてみた。
田中儀平は天保7年(1836)、長狭郡南小町村の川村重三郎という、貧農の次男として生を受ける。名は金次郎と言い、16歳のときに、儀平と名を変えたという。5歳で父を亡くすが、母と姉に育てられた。
2人は、金次郎をまっすぐに教育したという。金次郎は、義理に篤く正直で、温和こそが人間の魂であると諭され、この義理と和平を、一生の守りとする主義を立てさせられたいう。儀平という名は、この意味である。
8歳で草履(ぞうり)をつくり、縄をない、薪取りで家計を助ける。16歳で北小町村の杉田方に奉公に上り、住み込みで忠実に働く。21歳で同村の名主方に奉公。肥料をつくり、荒地開墾で作物を植え、竹の根張り防止の堀をつくり、農具の製作などに励む。主人は忠勤に感じ、家業を一任し、給金は最高額を出した。
25歳のときに、北小町村の田中家に婿(むこ)入りする。そのときに、白滝不動尊に7日間の祈願をした結果、農を一生の業とすべしというお告げが、おみくじに示された。
儀平は、農業の資本を得るために、同村真田家に2年間奉公に出る。奉公で貯めた給金で、農具、雌牛1頭、他諸経費、負債の償還と家計に充てたという。
このことは、後に日本農会会頭有栖川宮より、「今二宮」の称号を贈られるまでになる。
28歳で小作農を始める。借地は9反3畝(せ)、翌年には、2町5反歩とした。その中で、儀平は、弱小資本、労働力不足、小作料の負担などから来る重圧から脱して、より良い信頼関係を築くために、重大な決心をする。儀平は、土地改良、旱魃(かんばつ)対策、病中害対策に取り組み、いかなるときでも、良質米を規定通りに収めた。
これが、主家の認めるところとなり、労苦に報いるためにと、米6俵が下された。給金も若年にもかかわらず、最高額が支給された。さらに家業を一任されるという、信頼関係も築かれたのである。
残念なことに、大正5年(1916)、田中儀平は病を得て没する。
一生涯を農事に専念し、刻苦精励、選種、施肥、耕種に、一意研鑽の功を積み、農業の改善進歩を図り、家産を興すことに努めたこと。また、義理人情に篤く、進んで郷間の粉授を和解し、主家衰運の挽回に心をくだいていたことなど、大日本農会から表彰を受けることは、当然であり、農民の亀鑑であると、碑に記されている。
明治28年(1895)設立の安房国農会(会長吉田謹爾郡長)は、明治期の篤農5人を、農事改良、殖産の貢献者として顕彰している。田中儀平もその一人で、精農家として大きな評価を得ていた。
北条町在住の伯爵・万里小路道房との交流もあり、道房より離念の歌が贈られた。<なせばなるなさねばならぬ成るものをならぬは己がなさぬなりけり>=田中家所蔵、碑の撰文は正五位勲四等石田馨(千葉県知事)建碑主基村農会=。
(滝口巌)
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