木の命を彫る 長谷川昴
画像 鴨川市HPより
昭和32年(1957)正月、鉈(なた)彫り彫刻家、長谷川昴に同郷の材木商、宇佐美政衛氏から「東京湾観音」原型の制作依頼があった。現在、南房総国定公園大坪山に立つ、56メートルの野天の観音立像である。
眼下に広がる海は、三浦半島、伊豆半島、富津岬、東京湾のかなたには、東京スカイツリーを見晴らすことができる。
施主の世界平和への願いを形にする。そして観音は、周りの美しい自然と調和して、この台地に、天女のごとく舞い下りなければならない。意に満たない原型粘土像を何度も打ち壊し、夢遊病者のように家を出て、一日観音山をほっつき歩いていたこともあった。
長谷川の頭に、はじめから浮かんでいたのは、法隆寺夢殿の救世観音のイメージである。この飛鳥の秘仏は、輪郭の美しい塔のような構造を持ち、超大作にふさわしい。
昭和39年(1964)東京湾観音および体内仏(長谷川が彫った木彫24体)は完成に至った。
長谷川昴は、明治42年(1909)10月10日、現在の鴨川市粟斗に、農家の長男として生まれた。
「子供の頃は、房州の四季を山猿のように飛び廻って過ごした。春から夏にかけては、枇杷、山桃、すもも、野いちご、桑の実など、豊富な山の幸に恵まれた日々であった」と、著書『風と道』の中に書いてある。
中学くらいから、絵や文学、彫刻に心をひかれるようになっていた。自己を生かす社会の実現を目指す、武者小路実篤の「美しい村」の活動にも感銘を受けた。後年、「武者先生」(当時長谷川はこのように呼んでいた)の家を、週一度のペースでお邪魔し、多くのことを学んだのである。
20歳を過ぎたころ、長谷川の自刻像人形が、隣村から出た実業家、浦辺襄夫(じょうふ)氏の目にとまり、上京を促された。
浦辺氏は、大隈内閣の秘書官をした人で、ある時は、仏師で彫刻家だった高村光雲を鴨川に招き、宮彫り師、武志伊八郎信由の作品(金乗院大日堂、欄間酒仙の図)を見せた。
昭和6年(1931)、高村光雲に認められた長谷川昴は、日本彫刻会に入会、武者小路実篤、中川一政、石井鶴三と接し、文筆、水墨画なども発表した。
木喰上人(もくじきしょうにん)は江戸時代後期の遊行僧で、全国を旅しながら、一木造の仏像を刻み、奉納した。
長谷川が木喰仏を見たのは、日本民芸館の柳宋悦のところで、終戦直後、誰もが生きるのに精いっぱいの地獄絵図のような時代であった。そういう時代であっても、木喰仏は、上人そのものの肌のぬくもりを感じさせ、穏やかな微笑をたたえていた。「私の今までの彫刻修行は、いったいなんだったのか。字を習って字が下手になり、彫刻を習ってますますつまらない彫刻をつくっていたことに気づき、やりきれない気持ちになった」。衝撃を受けた長谷川の言葉である。
平成3年(1991)、鴨川市民ギャラリー完成記念展を開催。サイゴン国際美術展最高賞の「浄池」を鴨川市に寄贈。鴨川市名誉市民になる。鴨川市民ギャラリーには作品62点が常設展示されており、魚見塚展望台には、昭和60年(1985)制作の「暁風」が鴨川市を見守っている。
<樹木の年輪の美しいのは樹木のなやみの記録だからである> (昴)
平成24年(2012)逝去。102歳。
余談だが、「東京湾観音建立以降、大型台風も東京湾を避け、かつての田畑浸水などの被害は無くなっている」と、鴨川市粟斗地区の住民は話していた。
(長谷川昴箸『風と道』参照)
(上野治範)
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