25 畠山重忠

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

曽呂に伝わる、畠山重忠の伝承

「昔々、畠山重忠が、曽呂にやって来て、現在の二子のある家(畠山四郎右衛門の家)に泊まりました。半年か1年くらいいたでしょうか。そこの家の娘との間に子どもが生まれました。女の二子(ふたご)の赤ちゃんです(それ以来、この部落は二子と呼ばれています)」
曽呂の二子地区には、このような地名の由来が伝えられている。現在の鴨川市太海は以前、浜波太(はまなぶと)と岡波太(おかなぶと)に分かれていた。やがて、成長した二子の娘は、浜波太と岡波太へと別れて行ったという。
太海には、香指(かざし)神社がある。祭神は、倭建命(やまとたけるのみこと)の妃、弟橘姫(おとたちばなひめ)である。そこに、二子の娘のかんざしが、浜波、岡波としきって納めてある。
畠山氏は、秩父平氏(畠山氏・河越氏・葛西氏・江戸氏・小山田氏)の出で、源頼朝挙兵時、平氏方として三浦氏と戦っている。その後、畠山重忠は河越氏、江戸氏と共に祖先が、八幡太郎義家から賜った源氏の白旗を持って、頼朝に帰伏した。
武勇に秀でた畠山重忠は、「平家物語」によると、大変な力を持ちであったと言われている。
木曾義仲軍と戦った「宇治川の合戦」では、馬を射られて、徒歩で川を渡っていた時の様子が、こう記されている。

岩に当たって砕ける波が、兜の手先までさっと襲いかかってきたが、畠山はものともしない。水の中を潜って向こう岸に就いた。岸に上がろうとすると、後から何者かがむずと引っ張る。「誰か」と尋ねると「重親」と答える。「おい大串か」「さよう」と語を交わす。大串次郎は畠山にとっては、烏帽子子の、親しい間柄であるが、ここで、大串が、
「流れがあまり急なので馬を押し流されました。止む無く、とここまでついて参りました」と言ったので、
「何時までも貴様は俺のような者にたすけられるんだな」と言いながらも、大串を引っ掴んで岸の上に放り上げた」

鎧武者を、片手で放り投げたのである。また、一の谷の「鵯(ひよどり)超え」では、急な崖を、馬を損なってはならずと、担いで下ったと言われる。他にも、木曾義仲の愛妾である、女傑巴御前の、鎧の袖を引き千切ったともある。
二子にあるような物語は、各地に英雄伝説として伝えられている。これもその一つとして考えられる。二子に限らず、鴨川市には、頼朝伝説が多くある。そういった風土が、このような物語を生んだのであろうか。
(加藤和夫)

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