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郷土の基礎づくりの恩人・落合匡太郎
鴨川市国保病院の前身、吉尾国保病院の設立、県立長狭高校吉尾分校の設立、長狭地区3村合併で、長狭町初代町長を務めたのは、落合匡太郎である。獣医師でもあったことから、落合匡太郎は、酪農畜産業の振興と郷土の活性化を図り、「赤ヒ血となる、白ヒ牛乳」の名言をもって、牛乳の消費拡大、乳業の発展等にも尽力した。
牛涎こと落合匡太郎は、明治22年(1890)、現鴨川市大幡に生まれた。実家は、養蚕業と、先進のホルスタイン乳牛の繁殖で知られた、有数の牧畜家で、生まれながらにして酪農の洗礼を受けたと言える。また、この地域は、酪農、畜産、乳業の先進地でもあった。
落合匡太郎は、東京の麻生獣医高等学校に学び、明治43年(1910)に卒業し、明治45年(1912)、獣医業を開業し、房州酪農の指導に任じた。
大正元年(1912)、安房郡畜牛畜産組合市場獣医事務員として勤務。大正4年(1915)、安房郡獣医師会の創立委員となり、後に副会長となる。大正5年(1916)、房州ホルスタイン協会を組織し、畜牛の改良畜産経済の円満を期するため、翌年安房郡畜牛畜産組合技手、ホルスタイン種の輸入改良に尽力する。
昭和2年(1927)、安房郡牛馬商組合を設立。副会長等に推され、業務の改善に努め、畜産家の福利増進に尽くす。昭和3年(1928)、千葉県獣医師会の創立委員として、会の発展途上向上に、また、大日本畜牛改良同盟会、牛籍登録調査員等に任命され、登録事務を取り扱う。千葉県畜牛共進会などの審査員として活躍し、県有種牝牛購入促進の為、東奔西走した。
昭和24年(1949)、安房畜産農業協同組合長狭支部が吉尾村に置かれ、酪農の復興に取り組んだ。公人として、吉尾村では村会議員、在郷軍人会分会長、警防団長、大幡区長などを歴任した。昭和23年、町の基盤づくりで、吉尾村長に選ばれ、昭和30年(1956)、大山、吉尾、主基の3村合併に尽力し、初代長狭町町長に当選する。
この10年間、落合匡太郎は、画期的な事業に努める。昭和23年、吉尾国保病院開院、昭和24年、県立長狭高校吉尾分校の開設、昭和25年、県定時制教育の振興に尽力、同年、吉尾保育園開設、小中学校の整備、道路網拡充、村道の開設などをする。
その傍ら、郡戸籍事務協議会長、郡家畜保健所後援会長、郡土地改良協会理事、県国保団体連合会理事及び、安房郡誌部長、新農村建設東京地方協議会監事等の要職を兼任した。
洒脱(しゃだつ)な文章を得意として、畜産日報などの紙上に、健筆をふるい、常に房州の畜牛宣伝に努め「赤い血となる、白い牛乳」の名作は、牛涎の号と共に、名刺に入っていたという。
時事問題や酪農問題を批評して、ユーモアに包んだ名文で、新聞雑誌に発表し、愛読された評論家でもあった。
昭和40年(1965)、遺稿集が「牛涎漫談」として刊行された。あらためて氏の足跡の偉大さと、その卓見が痛感され、人格と業績を忍(しの)ぶよすがにと、発行者の小堀吉男長狭町長も記している。
房州が牛の国、乳の郷と言われるようになった陰には、氏の筆の力が、大いにあずかっていたと言えるだろう。その功績も甚大であると、安房郡畜産農業協同組合長の金木精一氏も述懐している。
昭和33年(1958)、病を得て、吉尾国保病院に入院。加療中に逝去された。吉尾小学校において、町葬が執り行われた。各界各層の人々千有余人の会葬者が参集した。70年の生涯であった。
(滝口)
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