模範農村の指導者 川名 傳
川名傳翁之遺績
歌は世につれ世は歌につれ、と言われるが、歌われる人物となると、多くはいない。その中で「あゝ我が恩人川名傳」と歌われた人物がいた。川名傳翁その人である。
長狭街道・主基交差点近く、元主基小学校旧正門前に、氏の顕彰碑が立っている。そこは、元主基産業組合の事務所跡であったが、現在は、裏手JA安房の敷地になっている。隷額は、「顕彰碑 川名傳翁之遺績」と記されている。緑泥片岩製の大きな碑。建碑に関わった人の思いが伝わってくるようで、気高く誇り高く感じられ、人々へ大切なメッセージを発信し続けている。
昭和10年(1935)安房主基村は、全国の優良村として、時の内務大臣後藤文夫の表彰を受けた。全国の模範農村に育てた指導者として、昭和18年(1943)、藍綬褒章が授与され、郷土のため、国家社会のために貢献された翁の道徳功績を伝えるために、村の当事者が建碑したものである。撰文は、「昭和二十七年三月十五日、中村時中」とある。
川名傳は、幼少時より方広寺(天台宗)の栗原広顕氏の指導を受け、漢学や数学を修める。その栗原氏と親交があったのが、撰文にある中村時中氏である。氏は国語漢文の大家で、旧制安房中学校で教鞭(べん)を執っていた。曽呂村出身で、後の大蔵大臣、水田三喜男代議士は、俳句と和歌を愛した政治家であるが、安房中時代に、中村時中先生に和歌の指導を受けていたという。
翁は明治8年(1875)、成川村に、川名弥太郎の長男として生まれた。その後、明治34年(1901)、主基村役場書記に就任、大正2年(1913)に助役、大正5年(1916)には村長となり、以後昭和15年(1940)まで、6回再選され、村長を務めた。
さらに、大正8年(1919)から主基信用販売講読利用組合理事、同組合長、千葉県信用組合連合会長、主基村耕地組合長、千葉県養鶏組合連合会長を歴任する。
昭和12年(1937)には、千葉県議会議員に選出され、全国産業組合共済会理事、全国販売購買利用組合連合会監事、農林中央金庫監事などの要職を務めた。
昭和18年(1943)、藍綬褒章を授与される(農林水産業功労)。
このように、多くの公職に就任し、郷里、国家社会のために力を尽くしたが、昭和23年(1948)3月、死去された。
翁が農村経済活性化のために、推進指導した事業は大変なものである。大正6年(1917)、主基産業組合(主基信用販売購買利用組合)組合長となる(村長農会長を兼任)。大正8年には、組合員418人に拡張され、大半の人が加入した。
事業は①信用(貯金貸付)②販売(農産物の共同販売)③購買(肥料・飼料・生活品の共同購入)④利用(機械設備の共同利用)-で、活用度は高かった。
大正8年、農業倉庫建設で事業開始。農会と産業組合は、昭和18年に、農業会に統一し、昭和21年(1946)には、農業協同組合となって、経済更生運動として委員会を設置し、効果をあげた。その他、副業を奨励し、自ら指導にあたった。
昭和8年(1933)、川名傳は、村内の真言宗4か寺を合併し、昭和院を建立した。さらに、組合立長狭中学校(現県立長狭高校)の設置と県立移管へも尽力した。
(滝口巌)
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