医者のつわもの 亀田俊孝(1923~91)
画像 亀田医療技術専門学校HP
亀田俊孝は大正12年(1923)、現在の鴨川市東町に亀田俊雄、せつの長男として生まれた。
亀田家の先祖は、17世紀寛保年間の人で、法印権大僧都清光と称した。続く人たちも、僧侶、医者、寺子屋の先生を兼ね、地域と供に歩んで来た。
俊孝は、10代目。進取の気性に富む先祖たちの地を受け、現在の亀田総合病院の礎(いしずえ)を築いた人である。
戦時中は所沢陸軍病院外科などに勤務。終戦後、入局していた岩手県盛岡の病院に、電報が届いた。「トリイソギカエレ」と。故郷の鴨川の父からで、用件は実家の病院の再興であった。
その当時の亀田病院は、海と菜の花畑の中に建つ、ちっぽけな診療所に過ぎなかった。
俊孝は26歳で鴨川へ帰る。この時から、今度は人の命を守り、救う40年戦争が始まった。
そして、彼の生涯の戦友があらわれた。現在の典子夫人である。東京・渋谷の医家のお嬢さんで、ミス千葉(健康優良美人)にも選ばれていた。
「わが家は、戦後の農地法で田畑を失い、貧しくても米も農家に借りに行く有様。残されたものは、亀田家という重いのれんと、この地の古い因習だけです。でも自分は、男としても限りない、夢と意地をもっています。あなたがほしい。もしいただけたら、女として必ず幸せにしてみせます」
昭和25年、俊孝は新島典子さんと結婚式を挙げた。仲人は森暁(さとる)代議士(日本冶金社長)夫妻であった。
当時は結核の時代である。俊孝は結核の治療に勝負を賭ける決心をした。早速既存の病室を、全部ベッドにするための改修を行った。職人の日当の金策と、看護の仕事は典子夫人が担っていた。
俊孝は当時の医師としては珍しく、「患者さんを診(み)させていただく」と言う気持ちと、「地方にあっても、日本一の医療を施したい」と言う考えを持っていた。
そういう考えから、ぜひ必要と思い、そのころ千葉県下に1台ない、高価なレントゲン装置を導入した。金はなかったが、金策は夫人にまかせていたのだ。
昭和29年(1952)、亀田病院附属准看護婦学校を設立。病床數35だった病院が、このころには200床を超えていた。30歳そこそこで次々に新しいことを実行する俊孝。一方、世間の風当りも強かった。ある酒席で、酌をして回っていたら「お前は亀田の倅(むすこ)かもしれないが、ここでは若造だ」とばかりに、俊孝の頭を小突いた者もいた。ここで、柔道家でもあった俊孝は切れた。「酒の肴(さかな)に、この方を相手に柔道の形をお見せします」と、飲み屋の奥座敷で、出足払い、左浮き腰、大外刈りを披露した。
俊孝は臨終に際して、敵味方すべての人に「ありがとう」と言いたいと述べ、その後で軍歌を口ずさみ、夫人の手を握り、長男の差し出すスコッチウイスキーを含み、旅だったと言われている。享年68。
(上野治範、亀田俊孝箸『鴨川随想』参照)
コメント