言霊で天地を動かす杉庵・
山口志道(1765~1842)
画像 鴨川市ホームページ
安房の国が排出した日蓮上人に次ぐ、一世の駿傑・山口志道は、現在の鴨川市寺門に生まれ、通称利右衛門と名乗った。少年時代に漢学を学び、25歳ころ単身江戸に出て、荷田訓之(かだののりゆき)に師事。神道、国学を学び、伏見稲荷大社に御神体として伝わっている「稲荷古伝神霊」を伝授された。
学統は、荷田春満(かだのあずままろ)の流れを汲(く)むとはいえ、格別師匠も伝統もなく、独自の学説(神代天心学、言霊学)をうち立てた。国学の他に、漢詩、和歌、狂歌、俳句、書画、彫刻なども手がけている。
学徳にすぐれた杉庵は、文人学者と広く交わる。晩年は、学説を弘布(こうふ)するために京に上り、懇親であった伏見稲荷大社神主秦親典の力添えもあり、多くの公家、貴紳が門人となる。さらに光格上皇(こうかくじょうこう)、ならびに仁考天皇(にんこうてんのう)の侍講(学門の講義)の光栄に浴する。
天保5年(1834)、代表作「水穂伝(みずほのつたえ・みずほでん)を完成させ、同年畏(おそ)れ多くも光格上皇から禁中の紅梅一枝を賜(たまわ)る。なお岩倉具集公(岩倉具視の祖父)をして、「・・・神代の正言をさとり敷島の道の言の葉天津空聞こえあげ・・・」と賛美された(吉保八幡神社境内の石碑より)。
志道は晩年、郷里に「御霊鎮守権現」(神社)の造立を計画したが、天保13年、78歳で没したことから実現されなかった。
没後、朝廷の祭祀にかかわる白河家より、「斎瑲霊神(いつきたまれいじん)」の神号を授かり、永遠に学門(神代天心学)の神として尊崇されることとなった。後に門人達は、高野山境内に供養石碑を建立した。
杉庵には天保9年に出版された「百首正解」の名著がある。小倉百人一首を解釈したものだが、その中で、山部赤人(やまべのあかひと)の歌「田子の浦に打ち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」の「田子の浦」は房州勝山(鋸南町)の字田子の地であると説いた。一般に田子の浦は、平安の昔から現在も、静岡県富士市の海岸、駿河湾西部一帯とされている。志道の論拠は、そもそも山部赤人は上総の山武郡の人であり、地勢からしても房州から富士を見ているのが一等よろしい、という。
神代天心学は、小稿のため割愛せざるを得ないが、志道は54歳で家を養子(三上長兵衛)に譲り、自らの「志道」に専念するために江戸へ出る。5年後「神代天心学」を完成。文政5年(1822年)正月に大山不動尊(鴨川市)に研究結果の形として、假名濫觴(かならんしょう)の額を献納した。
平成27年は、志道誕生250年に当たる。志道の俳句の素養は、門人安川文時を通じてアララギ派の歌人、古泉千樫に影響をあたえたといわれるが、天皇に侍講した駿傑・山口志道の名声は、ほとんど地域に伝わっておらず、一抹のさみしさを禁じ得ない。
「今日はくれ明日はあくると思いしに遠きあしたのつゆときえゆく」=杉庵辞世の歌=
(荒井晴伸)
2019年9月の台風15号の強風で倒れた顕彰碑は2021年10月、修復された。
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