18 横尾とき

知っているようで知らない安房の先人・偉人たち

女子教育に生涯を捧げた横尾とき

画像 鴨川市ホームページ

昭和4年(1929)は、旧鴨川町にとって、これまでにないにぎやかな年であった。というのは、大正14年(1925)には館山からの北条線が開通し、この年に勝浦からの房総線が繋(つな)がり、房総環状線が開通したからである。全通祝賀式には、時の鉄道大臣も出席し、観光客も大挙して来鴨したという。
<わが校の生まれしその日環状線通じて安房の文化開けぬ>
横尾ときの歌である。長狭実践女学校は、この年昭和4年4月18日に開校した。学校長は横尾とき。男子校としては、大正11年(1922)に、長狭11か町村の組合立として創立された、長狭中学校があったが、中等女子教育の学校はなかったのである。「本出願ニ係ル長狭実践女学校設立ハ当地方ノ渇望セル所ニシテ女子中等教育振興上誠ニ緊切ノ事ト認ム。扨テ速ニ御認可相成度茲ニ連署ヲ以テ副申候也」と、「長狭実践女学校創立申請書ニ対スル四隣町村(十一町村)副申」にある。いかに中等女子教育の場が求められていたかが分かる。
しかし、教育に対する理解が深まってきているとはいえ、女子教育に対する理解は、それほどでもなかったようである。そのため生徒募集には、大変な苦労が伴っていたという。
横尾ときの夫で、共に長狭実践女学校を創立し、横尾ときを尊崇の念で生涯支え続けた、横尾卯之吉の話を紹介したい。
創立当初の生徒募集は、夫婦で連日、就学適齢の娘のいる家を訪問して、懇切に説明し説得したということであった。弁当には餅を持って行き、親切な家の炉端で焼いて食べた。雪の降る日も、二人で暗くなるまで歩いた。町中はもとより、嶺岡山の麓の村々を歩き回ったと言うことだった。第1回生は17人が入学し、その後四十数人になったという。
<人の子を生(おふ)し育つる捨石とならむ思ひに二十五年経ぬ>
<一粒の道の種子(たね)をば安房の土にわが播きしより今に三十年(みととせ)
創立当初を述懐した歌である。「安房の土」とあるのは、横尾ときが、現印西市の出身であって、大妻高女・大妻技芸(高等技芸科)(現・大妻女子大学)での職を辞し、鴨川の有力者に請われて、安房に来たからである。
「生徒は自分の子ども」と横尾夫妻はことあるごとに話していた。
長狭実践女学校も、長狭高等実践女学校→長狭高等女学校→南総学園高等学校→鴨川第一高等学校→未来高等学校→文理開成高等学校→鴨川令徳高等学校と校名を変更し、現在に至っている。昭和50年代には、松と竹やぶに囲まれていた待崎川河口も、今ではすっきりとした防潮堤が整備されている。
創立当初、澄み切った待崎川で、生徒とボート遊びに興じていたという横尾夫妻が、この景色に触れたら、どのように思うだろうか。夫妻は、印西市にある平成霊園に眠っている。
崇慈院妙教日基大姉位 俗名横尾とき
昭和59年1月9日行年91歳
崇慈院桊山日卯居士位 俗名横尾卯之吉
昭和57年8月27日行年80歳
(加藤和夫)

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